どこにでもある日常をありきたりな言葉で残す価値。

いつでもどこにでもある永遠に続くような日常の出来事やなんでもない感情を、ありきたりな言葉で残すことにどれほどの価値があるのだろうか。と考えていた。

「今」から見る「今」は当たり前過ぎて分かんないね。

でも、時間という距離が離れていけばいくほど実感するんだ。

 

学校の放課後の静かな教室。

遠くで聞こえる吹奏楽部の練習の音が耳に入ってくる。

雑に消された黒板と歪みながら整列した机と椅子。

帰り道に寄り道したい気持ちとめんどくさい気持ちが戦う。

 

長期間同じクラスだったのにほとんど言葉を交わしたことがない同級生。

あんなにも毎日たくさん人がいる場所に通っていたのに限定的な友達。

無茶するだけで笑えた感覚。

 

どれもこれも、取るに足らないことばかりで意識すらしていないことがほとんどだった。

時が経ち、戻れない一つ一つのことを宝物のように感じる。

何も起きていない時間の1秒1秒が。

 

今という時間も、たくさんの時間が過ぎて振り返る時、同じように思うのかもしれない。

大変だったことも何もかも丸く柔らかく包みこまれて全部「よかったんだ。」と思えるのかもしれない。

 

何をどれだけやっても圧倒的に「足りない」のなら、せめて好きなことをしよう。

一つを選択すれば、選択しなかったものは選択されなかったものとして消えてしまう。

その連続が「時間」なんだな。

 

毎秒、意識する・しないに関わらず選択は行われ、得ると同時に失ってるんだな。

時に、その感覚に翻弄されたり恐くなってしまうことがある。

選択しないことを選択しても失うものは失うんだ。

得ようとしなくても得るものもあるのかな。

 

「何もしない」ことを選択していることもあれば、「なにかする」を選択しないこともある。

同じことなのかな。

意識と無意識を「結果」は区別してくれないんだと感じたんだ。

 

今感じていることでさえ、明日になったら思い出せなくなることがほとんど。

だからせめて、こうして残せたらいいな。

「どこにでもある日常をありきたりな言葉で残す価値」があると信じて。

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