昔から、自分の中に湧き上がる全てを表現したい欲求が合ってさ。
ドロドロとした真っ黒な感情も、善意の塊のような真っ白い部分も。
善悪にかかわらずできるなら全てを。
時代は進み、綺麗事抜きの今の感覚を残すことが生きにくさにつながっていくんじゃないかと感じてる。
そんなこと考えてちゃ何も表現できないのだけれども。
この欲求の根源はなんなんだろう。
今更承認欲求でもなかろう。
昔は承認欲求だったんだと思う。
世界に対してあまりにも自分という存在は小さくて、叫んでも叫んでも足りなくて。
ここにいるんだと、自分の感覚はこうだ。と。
今はどうだろ。
確認作業なのかな。
心の中での対話。
表現は具現化。
言語化。
自身の中で湧き出した感覚をできるだけ正確にアウトプットする作業。
そこに目的や意味なんて必要なんかな。
形にとらわれないもの。
自分自身が存在していることに意味があってもなくてもいいように、表現にも意味なんてあってもなくてもええよな。
吐いて捨てるもの。
時には、なによりも大事なもの。
どちらもだ。
どっちでもいいし、どちらかを自分で決めていいんだ。
生きれば生きるほど、矛盾の中を歩いているような感覚に陥る。
一貫性なんて、意識するものではなく結果だろ。
猫が猫であるように。
思いのまま過ごしたら、在り方の輪郭は見えてくる。
勝手に。
意思で決められる範囲なんて限られてるし、やりたいようにやった先と大して変わらないんじゃなかと思ってる。
やりたくないことをやろうとしてウダウダもがいてる時間も合わせた合計が「できる時間」であるように。
物理的には30分もあればできるようなことも、やりたくなくて期限がなければ3時間もかかってしまうように。
やりたいことなら2時間しかやらないと決めていても4時間やっちゃうように。
それが自分の中での当たり前であり物差しなんだな。
一定のスピードで時間は過ぎないし距離だって曖昧なものだよ。
表現は客観性との戦いのように思う。
自分は特に。
もともと持ち合わせていなかった客観性が邪魔をする。
社会と共存する副作用。
本当に書きたいことでも表現したいことでも、誰かわからない声を意識してしまう。
「ナルシストみたい。」って。
あれなんなんだろうね。
っていうか誰だよ。
出てこいよ。
誰も何も言っていないのに、勝手に悪意の声を自動再生してしまう機能。
客観性を身につけるために仕方なかったんだな。
もともとの感覚が独特すぎて。
「普通」を自動再生する機能を高値で買ったんだろ。
一度知ってしまったなら簡単には忘れられない概念。
表現がしたいなら、繋がりは最低限のほうがいいのかもしれない。
悪意のある声を脳内で自動再生してしまう自分には。
案外、他人の声よりも仮想敵のほうが攻撃力ある気がする。
なんだそれ。
現実の人間より仮の人間の声のほうが恐いって。
生きている中でずっとあるテーマ「自由」と「自分らしさ」。
特に自由っていうのは奥が深くて難しくもある。
自由になりたいと思って行動したことで不自由になるなんて、笑えない状況に陥ることだってあるよ。
自由になるための通り道として不自由を通過しないといけないとかさ。
本当笑えない。
自分らしく生きられた日は、眠る寸前に幸せな気持ちのまま自然に感謝の気持ちが湧いてくる。
残念ながらお金より自分らしさの価値が高いことがわかってしまった。
こうなってくると、一般的に幸せと呼ばれているものとはことごとく縁遠くなってしまう。
自分らしさを追求することは、独自にカスタムされた幸せを追いかけるということと同義のように思う。
何を得ても失っても、自分らしさだけは捨てずにいたい。
自分以外の誰も求めてくれなくても、絶対に離さずに。
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