大人になり、それなりに社会的な常識を身に着けていけば魅力的な人に近づけるような、そんな気がしていた。
でも、時代的にもちょっと違うように思った。
一昔前まで「普通」や「平均」が良しとされ、個性は社会で生きていく中で邪魔だった。
誰もがスマホでインターネットを使う時代では「普通」はあまりにもフックがなさすぎる。
引き続き、社会の中で生きていくには「普通」は重要な要素であり続けるだろうけど、個人の人生の幸福度を考えた時に、社会が求めるものと幸福度を高めるものはイコールではないと思う。
どんどん乖離していくだろうな。
いい学校に行き、いい会社に入り、20代で結婚してマイホームとマイカーを購入、そんなテンプレみたいな幸せのメッキが剥がれてきてる。
これもインターネットの弊害なんだろうな。
昔は集団妄想の中で生きられていたんじゃないかな。
個々人には色々あっても、それが他人には届かないから理想は守られた。
個人が不特定多数の人に対して発信できる世界では、今まで隠せていたものが隠せなくなってきてる。
それに伴い、行動規範もどんどん変化してきているように思う。
月9でロマンティックだったシーンも、炎上の種にすらなり得るだろうな。
そんななか、人間のどうしようもないだらしなさやしょうもなさをコンテンツにし続けている世界がある。
ニコ生界隈では、今でもどうしょうもない現実を垂れ流している人がいる。
あれがコンテンツとして成立しているのは、どこか羨ましさが含まれているからだと思う。
認めたくない人の中にも無意識に。
だからアンチが絶えないわけで。
本当にどうでもいいなら目に映らない。
ムカつき気になるのは、本人ですら認識できない感情が奥底に眠っている可能性がある。
アンチすら文化の一部として受け入れているのはニコ生というプラットフォームでは仕様上有利に働くことを知っているからだろう。
この歪んでいるとも言える構図が奇跡的に成立しているのがニコ生であり、メジャーになりきっていないから成立している部分もある。
コンプラはずいぶん厳しくなってきてるけれど、それでもYouTubeやTwitchなどと比べるとゆるい。
ニコ生には「沼」を楽しむ文化がある。
ギリギリの人たちがギリギリの人たちとどうしようもないやり取りをし、コメントセンスのある人達が盛り上げる。
体一つで声一つでたくさんの人を集める難しさを知っているからこそ、人間としての魅力で人を集め続けているニコ生主とかを見ると、本当にすごいと思う。
社会での正解がすべての正解ということではないんよな。
社会で認められない、馴染めない人が輝ける場所は必ずある。
だから、そういう自覚がある人は極力社会の中で迷惑をかけないようにしながら独自の幸せを探したほうがいいね。
社会的な致命的な短所ですら、一般人には到底真似できない魅力になることもあるのだから。
「どうしようもなさ」をエネルギーに変えられる時代。
きっと、なんでもできるよね。
社会に合わせることが得意な人、それが好きな人、そこに幸せを感じられる人は絶対それもいい。
でも、合わない人は合わない人で独自の幸せを見つけられる可能性があることを忘れてはならない。
猫がいたずらばかりしても言うことをきかなくても愛され続けるように、個々の存在にはそれぞれに真似できない魅力があるんだ。
短所という視点に惑わされてはならない。
短所を消し平均化しなければならないと思いこむことこそが罠ということもある。
ただ、短所を受け入れ生きていくことは大きなリスクもあるし生きにくさを増幅させる可能性もある。
ありのまま生きていこうとすることは、覚悟がいることではあるよな。
それでも道が残されているのは救いだと思うよ。
この可能性に誰もが気付いていけば、もっと生きやすくなる気がする。
どうしようもなければどうしようもないほど魅力になる可能性がある。
一線を越えるとアウトなことに変わりはないのでそこは注意だけど。
でも社会的にアウトと言われていることには、少し余裕が持たせられているように思う。
蔑まれるけど死にはしないみたいな。
人間の根源的な魅力に興味がある。
個人的には社会的にどうとか関係ない。
腹から笑えることってそういうものだろ?
ちょっと不謹慎で狭い世界だから成立するものだったり。
「それで笑ってる」と大々的に言いにくいことだったり。笑
なんでもかんでもオープンにしがちな時代だから、昔の深夜ラジオのような「知ってる人は知ってる」とか「ここだけの話」みたいなのがしにくい。
そういうことにこそ楽しさがあるのになぁ。
まぁ、LINEとかディスコでできるんか。
クローズドな場所でのやり取りの価値が高まっていくわな。
この辺にしとこ。
それでは。
コメント