安易に夢を否定してはならない。

10代の頃にさ、夢があって。それを「できっこない。」と否定されたことがあって。

もしかしたら「心配」だとか「失敗してほしくないから」という優しさや愛情からきた言葉だったのかもしれないのだけれど、いまでもチクリと胸を刺すんだよね。

 

あの一回の否定が厚みのあるコンクリートのような壁を構築するのには十分すぎた。

後から「見返してやると思ってもらいたかった」みたいなことを仮に言われたとしても、言われた側の心の棘は抜けないんだよ。

 

夢を語ること、やりたいことを語ること、とても勇気がいることで、夢について話している時はまるで張り詰めた風船のように少しの刺激で破裂してしまいそうになる。

それでも話そうと思うのは分かってもらいたいからにほかならない。

 

大きな理想を形にした人だって、志したその瞬間は小さな小さな存在だったかもしれない。

天地がひっくり返っても無理だと思うような偉業を成し遂げた人も、生まれた時はみんな赤ちゃんなんだ。

だから誰にも未来は否定できないはずなんだ。

 

分かり合いたいのに分かり合えないのはとても悲しいこと。

きっと、お互い相手へのリスペクトを持っていて嫌いではないはずなのに。

 

「たしかに無理かもな。あんたじゃな。でも俺は違う。」と走り出したあの日。

あれからたくさんの時間が経って、当時思い描いていたような形ではないけれど、今自分らしく生きられてる。

あの頃は分からなかった。名前のついている職業そのものに就きたいというのは表面的なもので、本質は自分らしく自由に生きたかったんだ。

そのことに気がつくのに時間がかかった。きっと、あのままもし夢が叶っていたとしても不幸になっていたと思う。

なぜなら、「思っていたのとは違う」現実が待っていただろうから。仕事にするというのはそういうことだもんな。

想像力のない当時の俺には気付きようもなかった。

でも、一度目指す必要があったんだ。自分で気付けるまでは誰になんと言われても諦めなかっただろうし。

だから無駄じゃなかったというのは言い訳に聞こえるのかな。

 

過程で経験することからの気付きは、その道程につかなければ一生感じることのないもの。

途中で違うと思ったなら、過去の夢にとらわれずに今ワクワクする方向に軌道修正すればいいと今は思ってる。

 

今となっては、ただのしこりになってしまったあの出来事。

きっと、言った本人は覚えてさえいないだろうな。

 

誰に理解されなくてもやりたいことはやる。

それができる環境で生きる。

 

無謀でも失敗が待っていても、死ななければそれでいい。

自分らしくいられたならまた歩き出せるから。

 

死んだ目をしながら毎日を亡霊のように生きることは俺にはできない。

大切なのは夢を否定することではなく、必要な時に寄り添ってあげること。

少なくとも、自分はそうしてほしかった。

 

同じ目線で見て考えてもらいたかった。

求め過ぎかな。

自分以外の人に何をどこまで求めていいのかなんて今でもわからないや。

だから、絶対に分かり合える存在として自分自身を選ぶようになった。

 

心の中での話し合いは起きている時間のほとんど。

自分の心の声なら悪意がないので、様々な意見を受け入れられる。

視点が偏りすぎるのはデメリットか。

無茶な判断も共にやって一緒に頑張れる。

そんな存在を内面に見つけてしまった自分はラッキーだと思ってる。

 

みんな、口にしてないだけでそれぞれの中にもうひとりの自分がいるのかな。

きっと変なふうに思う人もいるだろうけど、誰しも二面性は持ってる。

それを意識して拡張してるだけだと思ってる。

 

深層心理に目を向け、顕在意識だけにとらわれず状況から今自分がどう思っているのか、そういう視点で考えるくせがついたからこんなことになってんだろうな。

 

関係ない話になってきた。

人の夢は否定しない、夢の内容が追いかけているうちに変化したなら、こだわりすぎずによりワクワクする方に進めばいい、まとめるとそんな感じかな。

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