大きなイベントが開催される時などに、自分はまったく関係なくても「今日は大きなイベントがあるから晴れるといいね。みんな、きっとそのほうが嬉しいだろうから。」と何気なく思うことがある。
自分に一切メリットなんてなくてもそんなふうに思うんよなぁ。
それはきっと、同じように自分を含めた人たちの幸せを願ってくれた人がいたからなんだ。
でも、自分が思う「みんな」って誰なんだろ。
ふとね、思い出したんだ。「仲間」らしき人たちがいた頃のことを。
自分は仲間と呼んでいたけれど、自分が思う仲間から仲間と思われていたのだろうか。
これは友達とかにも当てはまるね。
あと、ケンカばかりになっていがみあってばかりになってしまった恋人を恋人と呼んでいいのだろうかなんて。
すごく前に、関係性について考えたことがあった。
それから関係性についた名前はただの記号のように思えてね。
友達であっても友達じゃなくなることもあれば一方的に友達だと思っていることもあるだろうし、仲間だと思っていても、ただ利益があるから集まってくれているに過ぎなかったり。
関係性に名前をつけることで虚しさやさみしさを抱えてしまうくらいなら名前なんていらない。
そんなふうに思ったんだ。
きっと、本当は一つ一つの関係性は固有のもので、ひとまとめにできるものではない。
付き合っていなくても、付き合っている人同士より愛し合っていることもあるだろうし、結婚していても殺したいくらいに憎み合っていることだってある。
どうでもいいんだ、名前なんて。
関係性そのもの以外はどうだっていい。
自分にとっての「みんな」とは誰なんだろう。
きっと、願いが浮かんだ時に浮かぶ顔やイメージできるものすべてなんだろうな。
突き詰めれば突き詰めるほど自分の嫌な部分が見えてくるので、いつも「みんな」って誰?の自問自答は曖昧になって終わる。
何度考えても「みんな(俺が嫌いなやつ以外。)」となってしまうので。笑
深く考えないほうがいいこともあるね。笑
大好きな人達が幸せでありますように。そこから拡張した想い。
知らない人も含め幸せになりますように。
そこで思考を止めておくのが良さそうだ。
関係性の名前なんて曖昧なもの。
大切なのは湧き上がってくる感情や、直感で感じるものだな。
毎回定義が変わってもいい、。一応繰り返し考えてみるけれど、曖昧さも含め自分らしいと感じるので。
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