誤解を恐れずいうならすべての人が快適に過ごせればいい。

うまく人と接することができない人も、嫌われてしまいがちな人も、人見知りで話しかけることが難しい人も、みんなみんな受け入れられ優しくされ理解されるといいなと心から思ってる。

これはずっと変わることのないこと。自分がうまくできているかは分からないし、瞬間的にイラッとすることはあるのだけれど。

 

この想いから、極力人を否定せず受け入れてみていた時期がある。結論からいうと、そのやり方は破綻した。

しかし、多くは寛容的な気持ちで受け入れ続けた人たちが原因で崩壊したんだ。

受け入れられないのには理由がちゃんとあるんだな。と実感した出来事だった。

 

性格的に実際にやってみないとわからないからさ。嫌われている人でもなにか勘違いなどの理由があるかもしれないと可能性を探った。

というのも、自分自身が人見知りでチャンスさえあれば仲良くできる人も多いだろうと思ったから。

うまく話しかけられずに難しかった。そんな自分のような人たちに繋がりを作ってあげたかった。というか、自分自身が繋がりを求めていたんだろうな。

 

居場所がない人に居場所を作ってあげたい、誤解されやすい人が誤解されないようにしてあげたい、そんな想いで動いていたけれど、本人が変わることを求めていないということも多いんよな。

周りが勝手にかわいそうと思って手を差し伸べるのはありがた迷惑なのかもしれないと思ってさ。俺は俺のことだけ考えていればいいのか。。と思った。

 

慣れてきた頃、受け入れられた自信が暴走する人もいた。

積極的に受け入れる環境の上だから成立していたことを自分の実力が向上したと勘違いして暴走し、居場所を破壊する。

見えないところでフォローをしたり評価が上がるようにしていた俺の信頼も同時に落ちた。この影の行動ありきで成立していたことを、想像力がない人は気付けない。

どうにか打ち解けるようにしてあげられないか、どうにか居場所に入れてあげられないかと試行錯誤しても、”どうにか。。”と思っていた対象が暴走して終わる事実に落胆した。

 

できることならすべての人が受け入れられ優しく接してもらい理不尽な扱いを受けずに大切にされるといいな。って今でも思ってる。

その想像をする時に、嫌いな人のことはイメージできない小さな自分はいるけど。笑

だから心の底からすべての人とは思えていないのかな。笑

 

そういえば、昔、ある人に、「あなたを雑に扱う人は最終的に没落するから気にしなくていいよ。」と言われたことがある。

そういう話は半信半疑で聞くから鵜呑みにはしていないけど、確かに縁が切れた人に不幸があったと聞くことが少なくないように思う。

気のせいかも知れないけどね。そんなことあるのかな。影でコソコソ言ってた人の噂が届いたりするけど、直接確認するわけじゃないからわかんないしな。

「あなたに理不尽な扱いをした人は報いを受けることになるから気にしなくていい。」そんなニュアンスの言葉がずっと心に残ってる。

そういう力が強いんだって。もしかしたら気休めで言ってくれたのかも知れないけどさ。そういえばあれから何年経ったんだろ。結構前の話だな。

 

でもたしかにあれじゃな。俺、親切にしてくれ続けてる人の幸せはいつも事あるごとに願ってる。笑 自分のことのように嬉しいしな。いつも気にかけてくれたり親切にしてくれる人が快適に過ごしていたり、なにか良いことがあると本当に嬉しい。心からよかったなぁって思える。

念のようなものが存在するとして、もしかしたらその力が強いのかも知れないと思うことがある。強く強く感じるから。喜怒哀楽すべてが。

これは昔からだな。想いが強いからフリーランスになれたというのも少なからずあると思う。

普通の流れだったらなれなかった。

想いが現実を引き寄せたなら、その過程で起こったこともまた必然だったんだろうな。

 

今、積極的に関わっていない人の中にも、一生感謝し続けると心に決めている人が何人かいる。当時、圧倒的にお世話になった人とか、この人なしには今の自分はないと思える人。

相手によっては頻繁に感謝の気持ちを伝えると「なにか裏があるんじゃないか」と勘ぐる人もいるので、感謝の気持ちを伝えられなくなったパターンも有る。笑

負担になるくらいなら一切言わないほうがいいもんね。ただ、そういう人以外には極力思ったタイミングでありがとうと伝えたいわな。

生活していて何の脈絡もなく感謝の気持ちがわきあがることがある。そういう時は本当は伝えたくてさ。相手からしたら確かに変だよね。笑

感謝の気持ちを受け取るのにもまた、才能みたいなものがあるように感じる。

 

あまり表情にも出ないしリアクションも薄いので、俺は喜ぶ才能がないと思っていたんだけど、俺が喜ぶことを喜んでくれる人が世の中にはいるのだと知って、案外喜ぶ才能もなくはないのかもしれないと少し思えるようになった。

感謝の気持ちを受け取る才能のレベルと、喜ぶレベルが釣り合う人同士が相性いいのかな。笑

どちらもレベル高いと平和で幸せな空間になるよね。笑

 

あとさ、「あの時はありがとう。」という出来事は、共通の思い出になったり仲を深めることにも貢献してくれてるとよく思う。

それって文字通りお金では買えないんよな。

見返りが期待できない俺みたいなやつを気にかけてくれる人は本物だと思う。(なにの。笑)

 

そういう見返りを求めない行動のおかげで、人間の可能性みたいなものを身をもって体験させてもらえた。

こんなに親切な人、この世にいるんだ!とかさ。

生きている中で摩耗していく無数の心の擦り傷みたいなものを癒やしてくれる効果があると思う。

 

見返りを求めない接し方ってさ、家族に接するような接し方じゃない?だから安心感があるんだろうな。

そして、そういう人は多くの経験をしてきたんだろうなと思うし、周りにいる人達もとても素敵なんだろうなと感じる。心打たれるものがあるんよな。尊敬できる。なかなかできることではないから。

 

できるだけすべての人が受け入れられ、大切にされ、愛され、包みこまれるように優しくされますようにと感じられるのは、自分もまた、誰かからそう願われたことがあるからなのかもしれない。

優しい世界になるといいな。ほんと。

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